せりざわ正子の決意 (2019年 10月)

 トップページ掲げた『せりざわ正子の市民目線の5つの政策』は、2019年の4月に策定しました。
『日本維新の会の7つの政策』と共通・交差している事項は多いのです。このサイトの「日本維新の会」をごらんください。

 目指すところ(Vision)と現状のギャップを埋めるために何をすべきかに言及しているのが、日本維新の会の7つの政策です。これらの政策には、行動規範にも言及したものもありますが、歴史の中でいつの間にか形成された既成概念をも払拭するという力強い決意のメッセージなのです。日本中に沈殿している塵を再認識し、そこから発信される様々な方針をストップするよう私達に呼びかけています。そして、身を切って改革するという覚悟が必要なのだと確信させてくれます。

 私は今、今後の我孫子市にとって、この日本維新の会の政策のような力強さの実現こそが非常に大切だと思っています。これからの我孫子市の財政は、更に厳しさを増します。平成29年度、市民税収入(全体の46%)と、民生費(全体の45.3%)の支出がほぼ同額でした。これからは、民生費が市民税収入を上回るであろうことは明白です。ではどうすべきか?

日本維新の会の『身を切る改革』に解決の一歩があると確信しています。

 様々な観点から考え、政策の一つ一つに納得し、共感し、私は、このたび無所属ではなく、『日本維新の会』を選びました。
 郡山市で市川房江先生に出会ってから、55年が経ちました。政治のスタートは、あの市川房江記念会館での学びでした。市川先生だったらどうするのだろうといつも思いながら…。

再度市政の場に立つ (2011年 8月)

 昭和49年、都内から我孫子市に移り住み、職業として珠算塾・総合学習塾を経営し、30年以上に亘り、地域の子ども達の教育の一端を担う傍ら市民活動、政治活動にも携わりました。8年前、我孫子駅「南北自由道路の建設をすすめる会」で約1,500人の署名を集めましたが、議会では1票差で不採択でした。治水対策もお粗末で、近くの避難場所は役に立ちません。結局、「インフラの整備」と「市内の治水対策」を政策に掲げて立候補し我孫子市議会議員に当選しました。

 勉強は財政決算カードの分析から始め、事業選択、議員定数削減、職員提案型制度の充実、又、市所有の不要不急の資産(主に土地)の処分などを提案しました。何度も何度も言って漸く外水用ハザードマップを全戸配布できましたが、災害弱者対策は不十分のままです。世間の常識・議会の非常識という点が多く見受けられ、私の時代は未だでした。同じ場所での水害は、もはや人災と言うべきでしょう。丁寧に内容を調べ、議会でも提案しました。しかし市の僅か三百数十億円では、全部では百数十億円とも言われている改修工事費用・抜本的な水害対策予算の獲得は無理です。今後、温暖化と都市化で、更に都市型洪水の頻発が予測されます。私は、利根川の堤防決壊もいつか必ずあると思っています。

 2007年の市議選は、綺麗な選挙をして惜敗しました。「志」と「単独の行動」だけでは、何も変わらないと、一度は議員生活から離れようかとも迷いました。しかし身近な問題を黙ってみている事はできず、名戸ヶ谷あびこ病院早期開設要望の署名を約1,400人分提出しました。(市内での署名総数約3,000人の4割以上に当ります)多くの家族が不便を感じ開設を待っていた《近所にある救急病院》なのです。市民会館跡地に無事開院しています。

 2010年夏、地域主権型道州制国民協議会会長であり、PHPの社長でもあった江口克彦氏の参議院選挙を手伝い、再度、市議への立候補の薦めを頂戴しました。みんなの党のアジェンダは、そのままそっくり私のアジェンダともいえました。参議院選挙に続き、県内の仲間達の選挙を応援しながら、すこしづつ再度挑戦の決心を固めていきました。候補者達の応援に駅前のロータリーに駆けつけてくる、渡辺喜美代表はもちろん地元選出の水野賢一参議院議員はじめ「みんなの党」のトップの国会議員たち(江田憲司、川田龍平、柿沢未途、小熊慎司各氏)の見解・行動は皆クリアで、《しがらみのない政党を率いて、大改革を進めるエネルギー》を感じた事が、大きな後押しになりました。

 1964年、日本で初めての女性市議会議員が、郡山市と神戸市で誕生しました。郡山市では、親友の母親の森永薫氏が教師を辞めて立候補し当選しました。キャッチフレーズは、“出たい人より、出したい人を。”でした。東京から市川房江氏が応援に来て、ウグイスをして付き添う私を候補者の娘かと尋ねました。後援会長の太田さんの病院は、当時、既に院内に、医師・看護婦・事務員等、全ての職種の子どもを預かる保育所を持っていて、患者を丁寧に扱う病院でした。

 次の世代に対する私たち大人の責任は大きいのです。いつまで古い政治をするのか。何が大切か、そして、急ぐのかを間違ってはいけません。再度政治の現場に立ち、若い人が希望をもって投票にいけるような政治、50年後の我孫子市の子供達に恥ずかしくない政治、を残すために、私は、一生懸命働きます。