再度市政の場に立つ (2011年 8月)
昭和49年、都内から我孫子市に移り住み、職業として珠算塾・総合学習塾を経営し、30年以上に亘り、地域の子ども達の教育の一端を担う傍ら市民活動、政治活動にも携わりました。8年前、我孫子駅「南北自由道路の建設をすすめる会」で約1,500人の署名を集めましたが、議会では1票差で不採択でした。治水対策もお粗末で、近くの避難場所は役に立ちません。結局、「インフラの整備」と「市内の治水対策」を政策に掲げて立候補し我孫子市議会議員に当選しました。
勉強は財政決算カードの分析から始め、事業選択、議員定数削減、職員提案型制度の充実、又、市所有の不要不急の資産(主に土地)の処分などを提案しました。何度も何度も言って漸く外水用ハザードマップを全戸配布できましたが、災害弱者対策は不十分のままです。世間の常識・議会の非常識という点が多く見受けられ、私の時代は未だでした。同じ場所での水害は、もはや人災と言うべきでしょう。丁寧に内容を調べ、議会でも提案しました。しかし市の僅か三百数十億円では、全部では百数十億円とも言われている改修工事費用・抜本的な水害対策予算の獲得は無理です。今後、温暖化と都市化で、更に都市型洪水の頻発が予測されます。私は、利根川の堤防決壊もいつか必ずあると思っています。
4年前、綺麗な選挙をして惜敗しました。「志」と「単独の行動」だけでは、何も変わらないと、一度は議員生活から離れようかとも迷いました。しかし身近な問題を黙ってみている事はできず、名戸ヶ谷病院早期開設要望の署名を約1,400人分提出しました。(市内での署名総数約3,000人の4割以上に当ります)多くの家族が不便を感じ開設を待っていた《近所にある救急病院》なのです。市民会館跡地に来春開院の予定です。
昨年夏、地域主権型道州制国民協議会会長であり、PHPの社長でもあった江口克彦氏の参議院選挙を手伝い、再度、市議への立候補の薦めを頂戴しました。みんなの党のアジェンダは、そのままそっくり私のアジェンダともいえました。参議院選挙に続き、県内の仲間達の選挙を応援しながら、すこしづつ再度挑戦の決心を固めていきました。候補者達の応援に駅前のロータリーに駆けつけてくる、渡辺喜美代表はもちろん地元選出の水野賢一参議院議員はじめ「みんなの党」のトップの国会議員たち(江田憲司、川田龍平、柿沢未途、小熊慎司各氏)の見解・行動は皆クリアで、《しがらみのない政党を率いて、大改革を進めるエネルギー》を感じた事が、大きな後押しになりました。
1964年、日本で初めての女性市議会議員が、郡山市と神戸市で誕生しました。郡山市では、親友の母親の森永薫氏が教師を辞めて立候補し当選しました。キャッチフレーズは、“出たい人より、出したい人を。”でした。東京から市川房江氏が応援に来て、ウグイスをして付き添う私を候補者の娘かと尋ねました。後援会長の太田さんの病院は、当時、既に院内に、医師・看護婦・事務員等、全ての職種の子どもを預かる保育所を持っていて、患者を丁寧に扱う病院でした。
次の世代に対する私たち大人の責任は大きいのです。いつまで古い政治をするのか。何が大切か、そして、急ぐのかを間違ってはいけません。再度政治の現場に立ち、若い人が希望をもって投票にいけるような政治、50年後の我孫子市の子供達に恥ずかしくない政治、を残すために、私は、一生懸命働きます。
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